森林浴~しずかに腐ることの歓び
森へ行くのは、からだが乾いてきたときだ。
心ではない。心なんぞは湿っぽいもののくせに、都会の雑踏の中ですぐ乾く。
乾きすぎて干からびる。
干からびた心を抱えたまま、それにつられて、からだの方がひび割れてくるのだ。
そういうときに、森へ向かう。
潤いを求めて、その潤いで腐るために。
都市の空気は軽すぎる。
ペラペラと薄いビニールのようで、呼吸するたびに肺が擦り切れてゆく。
誰かの声、クラクション、そんな喧噪、その中を漂う意味のない広告の洪水。
生きるために吸っているのか、死ぬために吸っているのか分からなくなる。
それで僕は、森へ逃げる。
そう、逃げるのだ。行くのではない。逃げる。
そこに多少の恥があり、それを背負っている自覚があるぶん、森の静けさはやさしい。
森の中は、なんともおしゃべりで、それでいて、なんとも寡黙だ。
鳥が鳴く。葉が揺れる。虫が這う。
誰も僕に話しかけてはいないのに、全身の細胞が、何かを聴きはじめる。
耳ではなく、肌が澄み、音を拾いはじめる。
皮膚が小さな窓になっていて、森の声がじかに流れ込んでくる。
甘くて、少し湿った、落葉の腐りかけた匂いがする言葉たちだ。
ああ、これが森林浴というものか──
などと、名前をつけたがるのは、いつでも人間の悪癖だ。
森はなにも浴びせてなどいない。ただ、そこに在るだけ。
それだけでこちらが勝手に濡れていく。
やわらかく、ぬめるような空気が、肺の底を洗っていく。
フィトンチッド? 科学者たちはそう呼ぶ。
名前をつけて瓶に詰めたがる。
でも、僕は、あれを「沈黙の息」と呼びたい。
言葉にならないものを、言葉にならないまま、からだに通す行為。
一時間も歩けば、自分という形がぼんやりしてくる。
職業も、肩書きも、年齢も、性別すら、どうでもよくなってくる。
虫がとまった指を、無意識のうちに眺めていたりする。
何か大事なことを忘れてきたような不安と、何も思い出さなくてよいという安堵が、背中で共存している。
森では、私は立派であろうとしない。
立派であった記憶すら、木の影に吸い込まれてゆく。
(いや、かつて立派であったことなど、なかったが……)
たましいの整形手術をし続けている都会の人間たちには、このやわらかく崩れていく感覚を、ぜひ体験してほしい。
きちんと崩れるということは、きちんと生きていたという証だ。
イメージしてほしい。
風がそよぐ。木漏れ日が揺れている。その影をつま先でつついている。地面には小さな死骸。枯れた葉の層。その下で、虫たちがせっせと何かを分解している。
つまり、森とは、腐ることがゆるされている空間だ。
そして僕は、そこへ行くことで、ほんの少しだけ「腐らせてもらっている」
──それが、森林浴なのだと思う。
腐って、柔らかくなって、風に触れて、少し笑う。
そんな時間のことを、生きているというのなら、僕は森の中でこそ、ほんとうに生きているかもしれない。
