森林浴~しずかに腐ることの歓び

shingyo_art@outlook.jp

森へ行くのは、からだが乾いてきたときだ。

心ではない。心なんぞは湿っぽいもののくせに、都会の雑踏の中ですぐ乾く。

乾きすぎて干からびる。

干からびた心を抱えたまま、それにつられて、からだの方がひび割れてくるのだ。

そういうときに、森へ向かう。

潤いを求めて、その潤いで腐るために。

都市の空気は軽すぎる。

ペラペラと薄いビニールのようで、呼吸するたびに肺が擦り切れてゆく。

誰かの声、クラクション、そんな喧噪、その中を漂う意味のない広告の洪水。

生きるために吸っているのか、死ぬために吸っているのか分からなくなる。

それで僕は、森へ逃げる。

そう、逃げるのだ。行くのではない。逃げる。

そこに多少の恥があり、それを背負っている自覚があるぶん、森の静けさはやさしい。

森の中は、なんともおしゃべりで、それでいて、なんとも寡黙だ。

鳥が鳴く。葉が揺れる。虫が這う。

誰も僕に話しかけてはいないのに、全身の細胞が、何かを聴きはじめる。

耳ではなく、肌が澄み、音を拾いはじめる。

皮膚が小さな窓になっていて、森の声がじかに流れ込んでくる。

甘くて、少し湿った、落葉の腐りかけた匂いがする言葉たちだ。

ああ、これが森林浴というものか──

などと、名前をつけたがるのは、いつでも人間の悪癖だ。

森はなにも浴びせてなどいない。ただ、そこに在るだけ。

それだけでこちらが勝手に濡れていく。

やわらかく、ぬめるような空気が、肺の底を洗っていく。

フィトンチッド? 科学者たちはそう呼ぶ。

名前をつけて瓶に詰めたがる。

でも、僕は、あれを「沈黙の息」と呼びたい。

言葉にならないものを、言葉にならないまま、からだに通す行為。

一時間も歩けば、自分という形がぼんやりしてくる。

職業も、肩書きも、年齢も、性別すら、どうでもよくなってくる。

虫がとまった指を、無意識のうちに眺めていたりする。

何か大事なことを忘れてきたような不安と、何も思い出さなくてよいという安堵が、背中で共存している。

森では、私は立派であろうとしない。

立派であった記憶すら、木の影に吸い込まれてゆく。

(いや、かつて立派であったことなど、なかったが……)

たましいの整形手術をし続けている都会の人間たちには、このやわらかく崩れていく感覚を、ぜひ体験してほしい。

きちんと崩れるということは、きちんと生きていたという証だ。

イメージしてほしい。

風がそよぐ。木漏れ日が揺れている。その影をつま先でつついている。地面には小さな死骸。枯れた葉の層。その下で、虫たちがせっせと何かを分解している。

つまり、森とは、腐ることがゆるされている空間だ。

そして僕は、そこへ行くことで、ほんの少しだけ「腐らせてもらっている」

──それが、森林浴なのだと思う。

腐って、柔らかくなって、風に触れて、少し笑う。

そんな時間のことを、生きているというのなら、僕は森の中でこそ、ほんとうに生きているかもしれない。

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