木漏れ日のことなど
淡い木漏れ日のやさしさ
木漏れ日というやつは、淡いものになると、光そのもののくせに、どこかしら影をまとっていて、なんとなく「すまなそうに」地上へ降りてくる。
ああいう遠慮がちの光を見ていると、うっかり人間のことなんぞも嫌いになりきれない気がしてくる(まあ、嫌いになる必要もないのだが)
どこでだったか忘れたが、林の中の小道を歩いていたとき、足元にそれがひっそりと落ちていて、風がそよぐたびに揺れていた。
大仰でもなければ、情熱的でもない。
ただ葉の間から、余った光をこぼしているだけなのに、どうしてあれほど心に触れるのだろう。
淡い木漏れ日には、自己主張がない。目立とうとしない。ただそこにいて、そこからすこし離れた場所に、僕という男が、へらへら歩いている。
そんな関係が、なんだか心地いい。
都市の暮らしは、いちいち強くて速すぎる。
歩行者信号は赤と青しかないし、急かすように点滅しやがるし、距離に見合わぬ早さですぐに点滅をやめて赤くなる。
そんな中で、木漏れ日が落ちてくる時間というのは、ちょっとした事故みたいにやってくる。
信号待ちのとき、街路樹の陰から腕にふわっと差し込む光。それだけで、妙に生きている実感がわいてしまうのだ。
木漏れ日には、時間がある。
いや、時間というよりは、「とどまること」そのものだ。
木漏れ日が落ちているあいだは、なぜか自分が追い立てられていないような気がする。
逆に、忙しいふりをしている自分のほうが、滑稽に見えてくる。
それにしても、木漏れ日というのは、ずるい。
美しいのに、誰のものでもない。
風が吹けば逃げまわるし、陽が傾けば消えてしまう。人を惹きつけておいて、何の約束もしてくれない。そういうところが、いっそ羨ましい。
そういえば若い頃、タイの公園でぼんやりしていたときも、やはり足元には木漏れ日があった。
言葉の通じない国の、誰にも話しかけられない時間の中で、やさしかったのは、木漏れ日だけだったように思う。
キャンプに出かけたり、郊外の河原なんかで焚き火をしたりしていると、やはり不意にそれが落ちてくる。葉の影をすり抜けて、焚き火台の縁にふっと差す光。
そのとき、なんだか自分の存在が、ちょっとだけ赦された気がする。
世界がこちらを嫌っていない、と思える瞬間。
いや、それは思い上がりかもしれないけれど。
木漏れ日を見て泣いたことがある、というと大袈裟だが(というより、それは嘘だが)
妙に胸が締めつけられたことがある。
誰も何もしていないのに、こっちの心の方が勝手に反応してしまう。
もはやあれは光ではなく、記憶そのものなのかもしれない。
人間というものは、強い光には弱いくせに、ああいう弱々しい光には心を開いてしまう。
誰かに優しくされると不安になるのに、木漏れ日には無防備になれる。
なぜか?
たぶん、木漏れ日には下心がないからだろう。
光の〝くずれ〟のようなものが、世界の中にそっと忍び込んでいる。
それに気づいたとき、自分が少しだけマシな人間になれたような気がしてしまうのは、やはり僕がダメな人間だからなのかもしれない。
だが、それでいい。
そう思えるのも、木漏れ日がそこで揺らぐときならではの恩恵だ。
