深い森で独り寝
夜の森に、火をひとつ、置いた。
人の気配というものが、これほどにも不必要なものだったかと、少し驚いた。
いや、むしろ、その不必要さに安堵したと言った方が近いかもしれない。
焚火の明かりが、僕の孤独をあぶり出す。
まるで、ひとりぼっちでいる僕を、遠くから誰かが見ているようだった。
森の音はやさしく、けれど容赦がない。
葉擦れ、枝鳴り、小動物の跳ねる音。風はさざめき、時に木の根元で何かが崩れる。
どれもが、人間の生活から切り離された、もうひとつの世界の音だった。
それを聞いている僕はといえば、缶ビールを一本あけて、干からびたソーセージを炙りながら、「ああ、なんだか、ちゃんとしているな」と思った。
ちゃんとしているのは、自然のほうであって、僕ではない。
街では、何をしても「間に合っているかどうか」に気を使う。
けれど森では、何も急がなくていい。
水も、火も、食事も、寝ることすら、急がせるものがない。
ただ、日が沈み、夜が深まり、気温が下がっていく。それだけだ。
時間が流れているというより、空気の粒が少しずつ位置を変えている、とでもいうような静けさだった。
星を見た。
思っていたより、まばらで、どこか頼りない。
でもその頼りなさが、どうしようもなく、やさしかった。
都市の光の中では星は常に消されている。
だから、こんなに頼りない星を見て、「あ、これが本当か」と思った。
真実というのは、いつも、こんなふうに頼りないものだ。
でしゃばらず、でも逃げもせず、こちらの目が慣れるのを、ただじっと待っている。
薪がパチンとはぜる音に驚いて、自分の肩が小さく跳ねた。
誰にも見られていないのに、なぜか恥ずかしい。
都会で僕は、他人の視線に自分を合わせすぎていたようだ。
だから、そんな自分の仕草に驚いた。
それは、長く使っていなかった体の部位が、ふいに目覚めて伸びをしたときのような、不意打ちの感覚だった。
眠ることにした。
テントに入ると、そこには空気が詰まっていた。
狭くて、寒くて、無防備。
けれど、僕の心は少しだけ緩んだ。
なぜだろう。
おそらく、森のすべてが僕を無視してくれていたからだ。
気を使われない。無関心。
そういうものに、今の僕は癒やされる。
夜中、目を覚ました。
耳をすませば、かすかな音がするようでもあり、だが、とりわけ意識しなければ、
何の音もないようでもあった。
しかし、それは無音ではなかった。
「無数の気配の沈黙」だった。
と、そのとき、フクロウが鳴いた。ひとつだけ。誰の返事もなかった。
その孤独さに、胸の奥がチリッ、と焼けた。
孤独というのは、実は贅沢な時間なのかもしれない。
誰にも邪魔されず、自分だけが、自分を見張っていられるのだから。
朝になった。
焚火の跡は、まだ灰色の湯気をあげていた。
その煙を見つめながら、僕はなぜか、昨日よりも自分の顔をよく知っているような気がした。
目の奥に何が宿っているか。頬の線がどこへ向かっているか。
街の鏡より、ここの朝の光のほうが、ずっと正直だった。
森は、何も言わなかった。褒めもしなければ、叱りもしない。
ただ、在る。そこに在る。
それが、なんともありがたかった。
次に来るときは、もう少しだけ、弱ったときがいい。
森は、強い人間よりも、ひび割れたところのある人間のほうを、少しだけ優しく抱いてくれる気がするから。
