森林ウォーキング――ときに歩行禅のごとく

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森へ入ると、僕は、少しばかり人間をやめる。

いや、正確には、人間というものの輪郭が、木々の湿った匂いのなかへ溶けてゆくのである。

町では、誰もが自分を固く持ちすぎる。名前を持ち、役割を持ち、時計を持ち、数字を持ち、肩書きを持つ。そのくせ、ほんとうの意味では、自分自身を持ってはいない。

みな、何かに追われるように歩いている。電車に押し込まれ、信号に従い、画面を覗き込み、脳髄だけが擦り切れていく。

そういう生活を続けていると、人間は「歩く」ということさえ忘れてしまう。

歩くとは、本来、もっと原始的で、もっと祈りに近い行為だったはずだ。

僕は森林ウォーキングが好きだ。

健康雑誌に載っているような、脈拍がどうとか、脂肪燃焼がどうとかいう話ではない。

もちろん、それも多少はあるのだろう。

だが、僕にとって森を歩くということは、もっと別の、名づけがたい行為である。

ときに、それは歩行禅に近い。

山門をくぐった禅僧が、黙々と庭を巡るように、私は森の道を歩く。

ただ歩く。

達成するためではなく、ただ足を前へ運ぶ。

すると不思議なことに、頭のなかに詰まっていた澱のようなものが、だんだん沈殿してゆく。

森には、都市のような過剰な情報がない。

あるのは、風が葉を擦る音。遠くで鳴く鳥。倒木に生えた茸。湿った土。名も知らぬ虫の羽音。

そんなものばかりである。

だが、その「そんなもの」が、人間の壊れた神経を修復してゆくのだ。

森を歩いていると、最初の三十分くらいは、頭のなかで雑念が喚いている。

昨日の失敗。仕事の不安。老後。金。人間関係。腹の脂肪。未来への焦燥。

文明人というものは、脳味噌のなかに、つねに小さな猿を飼っている。その猿が、ぎゃあぎゃあと騒ぎ続けるのである。

しかし、一時間も森を歩いていると、その猿が静かになる。

木漏れ日を浴びながら、ゆっくり歩いているうちに、思考というものが、だんだん剥がれ落ちてゆくのだ。

すると、自分が「考えている存在」ではなく、「ただ存在している生き物」に戻っていく。

これが実に気持ちいい。

僕は、禅のことを深く知っているわけではない。経典も読まぬし、悟りなどという大それたものにも縁がない。

けれど、森を歩いていると、ときおり、自我の境界が薄くなる瞬間がある。

杉の匂いを吸い込みながら歩いていると、自分が呼吸しているのか、森が呼吸しているのか、わからなくなる。

風に揺れる葉を見ていると、自分の内部にも同じ風が吹いている気がする。

そういう瞬間、人間は少し救われる。

人は普段、自分を重くしすぎている。

「私はこういう人間だ」「私は成功しなければならない」「私は負けてはいけない」

そんな札を、胸に何枚も貼りつけて生きている。

だが森のなかでは、それらは無駄で、あまり意味を持たない。

木は、出世しない。苔は、競争しない。虫は、他人の評価を気にしない。おそらく。

彼らはただ生きている。

その姿を見ると、人間だけが妙に力み返っていることに気づくのである。

僕は、ときどき、立ち止まって空を見る。

枝の隙間から覗く青空は、古びた障子の破れ目みたいに見える。そこから、世界の向こう側の静けさが漏れている。

そんなとき、胸の奥底に張りつめていたものが、ふっと緩む。

森は、人間を励まさない。「頑張れ」とも言わない。「夢を叶えろ」とも言わない。

ただ、黙ってそこにいる。

それがいい。

現代人は、あまりにも励まされすぎている。前向きになれ。努力しろ。挑戦しろ。成長しろ。

世の中は、まるで永久機関のように人間を回転させたがる。

だが、生き物というものは、本来、そんなに高速で回り続けられるようにはできていない。

だから、時々、森へ行くべきなのだ。

歩く速度を、自分の呼吸と同じくらいまで落としてみる。

靴底で土を踏む。

木漏れ日を浴びる。

黙る。

すると、人間の奥底に沈んでいた原始の感覚が、ゆっくり浮かび上がってくる。

僕は思う。

森林ウォーキングとは、単なる運動ではない。

文明によって酷使された精神を、自然の速度へ戻してゆく儀式である。

歩行禅とは、寺の回廊だけにあるものではない。

深い森の、落葉の積もった道にもまた、静かな禅は存在している。

風が吹く。葉が鳴る。鳥が飛ぶ。自分も歩く。

それだけで、世界は少し足りるのである。

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