芝生毒抜き療法
芝生の上に寝転がってみる。
それは、物の役に立たぬ行為のようでいて、じつは、現代という毒気を一旦、肌から剥がし落とす、儀式のようなものだ。
背中に広がるのは、ぴんと張られた草の織物。そこに自分の体重を全部、投げ出してしまうと、地球という女神が、微かにだが、こちらを受け入れてくれるような気配がする。
ほとんど、恋のような、あるいは、死にかけているときにだけ感じる静謐な抱擁だ。(とはいえ、死にかけたことはないから、勝手なイメージだが)
目を閉じれば、まぶたの裏で太陽が燃えている。草の匂いが鼻腔に沁みて、昨日の焦燥や、他人の評価や、老いへの不安までもが、土の奥へ引き込まれていく。
こんな簡単に溶けてしまうものだったのか。
いや、きっと、僕のなかの毒が、芝生という緑の臓器によって中和されるのだろう。
風が吹き抜ける。耳の奥で、草が誰かに話しかけるように揺れる。
知らぬ間に、心拍がゆっくり、ゆっくりと……
そうしてふと思う。
私は生きていて、誰にも見られていない。
そんな確信が、無性に甘やかで、哀しくて、少し嬉しい。
芝生というものには、地球の湿り気が、そのまま寝床になったような、得体の知れぬ優しさがある。どんな高級なベッドも、この感触には敵わない。
背骨を包み込むのではなく、忘れさせる。身体のかたちすら曖昧になり、僕はただの生物に還っていく。
指先が土の感触を拾う。それは、もう忘れかけていた、少年のころの秘密基地の匂いだ。
芝生の上で、時間の軸からも、社会の役割からも解き放たれる。
芝は、沈黙のうちに僕たちを赦してくれる。
「何も成さなくてもいいよ」と。
「黙っていてもいいし、眠ってしまってもいいよ」と。
ある春の日、那覇の空港近くの公園で、僕はスーツのまま、芝生に身を投げた。飛行機が轟音を立てて離陸していく頭上、すぐ隣で見知らぬ子供が癇癪を起こしていた。
だのに僕は、なぜか深く深く、眠ってしまったのだ。
夢のなかで、僕は空になっていた。なにもない、ただの空気の塊。
目が覚めたとき、僕はなぜか新しくなっていた。まるで一度、死んでから生き返ったかのように。
芝生に寝転がることは、詩を読むことに似ている。
無意味に見えるひとつひとつの草の刃が、やがて全体として心を揺らす。
そういう「意味にならない力」に触れたとき、人間はようやく「人間ではないもの」として、呼吸できる。
スマホを手放すのが怖いのは、自分の不在が誰にも気づかれないことへの恐怖だ。しかし、芝生の上に横たわれば、その不在が「肯定」になる。誰にも見つけられないからこそ、ようやく自分自身を見つけることができるのだ。
僕が芝生の上で得たものは、情報でも、快楽でもない。ただの静けさであり、無駄であり、少しの孤独だった。それらは、貨幣にもならず、実績にもならず、ただじっと、僕の内側に沈殿していった。
そうして僕は、ほんの少し、今日を生きる準備ができたような気がした。
芝生は、無言の哲学だ。寝転がるという一瞬の背徳に似た行為を通じて、僕たちに、ただそこに在ることの奇跡を思い出させてくれる。
だから僕は今日も、ひとつまみの躊躇とともに、靴を脱ぎ、世界から逃げ出すようにして、芝生の上に身を横たえる。
やがて草の香りに包まれながら、僕は何者でもない、ただの「体温」へと戻っていく。
