吊られるということ——ハンモックについて

shingyo_art@outlook.jp

人間というのは、地べたに足をつけて生きているつもりでいて、

実のところ、なにひとつ足もとが確かでない生きものだ。


電車に乗っていても、職場にいても、地に足がついているようで、

どこかいつも空中をさまよっている。


だったらいっそ、はじめから浮いてしまえばいい。


──ハンモックというのは、そんな厭世的な哲学を

やけに物理的な方法で体現してくれる道具である。

木と木のあいだに布を渡して、自分の身体を吊るす。


はたから見れば、怠け者の寝床か、熱帯の酋長の休日か、

あるいは気の抜けた漂流者の姿に映るかもしれない。


だが一度、それに寝そべってしまえば、人はたいてい黙る。


自然に揺れてしまうからだ。


言葉ではなく、揺れで考えることを強いられる。


つまり、どうでもいい存在になる練習として、あれはとてもいい。

都市で暮らしていると、すべての物事に重力がありすぎる。


時間も、義務も、肩書きも。


スマートフォンを1分放置しただけで、

何かを失っているような気がするこの時代に、

ハンモックというやつは、なんとも古くさくて、無防備な道具である。


けれど、だからこそ、価値がある。

布一枚とロープ。


それで空中に一人分の〝空白〟を作り出す。


誰にも奪われない、自分だけの何もない場所。


これが都会のマンションでやれたら便利だが、

たいていは木が必要になるので、

どうしても森のなかへ行くことになる。


それもまた、都合がいい。

地面に寝ると、虫が這う。


テントは息が詰まる。


椅子に座れば背中が痛くなる。


──というふうに、

他の道具の欠点ばかりを言い立てるのは、少し大人げないが、

それほどまでにハンモックは余計なものを持っていない。


あれに乗って、何かを「する」ことは難しい。


だから「しない」ことだけができる。


それが貴重なのだ。

以前、あるキャンプ地で、朝もやのなか、

ハンモックに寝たまま目を覚ましたことがある。


薄目を開けたら、木々の枝のすき間から陽が差してきて、

蜘蛛がひとすじの糸を揺らしていた。


自分が生きているということを、あんなにひっそりと、

しかも穏やかに肯定されたのは、あの時が初めてかもしれない。

自然のなかで揺れていると、

人間が社会の副産物でしかないような気がしてくる。


名前も、目的も、要らない。


〝ここにいる〟ことだけで十分だという感覚が、

ハンモックの中では許される。


それはつまり、許されたいというこちらの願望が、

ようやく宙づりにされることによって解放される、

という皮肉である。

ただし、これもまた贅沢な話で、ハンモックは場所を選ぶ。


木がふたつなければ何も始まらない。


距離が近すぎても、遠すぎても駄目だ。


絶妙な間合いが必要なのだ。


人間関係と同じで、離れすぎると声が届かず、近すぎると息が詰まる。


ハンモックに寝るとき、人は必ず木との距離を測る。


無意識のうちに、

居心地という名の人間性を試されているようで、おかしい。

揺れの中には、均衡と破綻が同居している。


うっかり力を入れれば落ちてしまうし、委ねすぎると眠ってしまう。


意識と無意識のあいだを、ただ、たゆたう。


それはまるで、人生そのものの訓練のようだ。


だから、僕はこう思っている。

人間は時おり、空中に吊られてみるべきだ。

何者でもなく、何もしていない、何も証明しなくていい時間。


そのために、ハンモックというものが、密やかにこの世に存在してくれている。

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